両親の35歳はうっすらと記憶にある。娘のわたしは9歳か10歳で、親の誕生日を祝うという概念がすでにあった。わたしは26歳になる年に、35歳の夫と結婚をした。20代半ばでの9歳差というのは圧倒的に大人にみえた。
とにかく35歳という年齢は、わたしにとって「大人」という表現がしっくりくる。成人からとうに過ぎているし、社会人経験が10年以上経つ場合が大半で、家庭を持ったりキャリアを積んだり、何らかの選択をして人生を歩んでいる人が多い。現代の日本の平均年齢から見たら「若者」という位置になるけれど、それは相対的なもので、自分で責任を持って生きているという意味では紛れもない「大人」なんだと思う。
わたしにとって30代前半は「余生」みたいなものだと思って生きていた。28歳で乳がんになって、どんな努力も希望も、病気の前ではあまりに無力で、何もかもが無駄だと思っていた。だから、仕事はそこそこにやれば良いし、趣味は浅く楽しんだ方が良い。子どもはもう産めないし産まない。何か望み、熱中することは、それを失う恐怖が大きすぎると考えていた。
そういう生活もべつに悪くはない。価値観は人それぞれで、ゆるく生きたっていい。傷つくよりも、平和に生きたほうがいいこともある。
でも、なんとなく、わたしはまだやりたいことがあるんじゃないか? と思い始める。34歳の終わり。単に年齢のせいか、病気からの経過年数なのか、ゆるくやるはずの仕事で、思ったよりも成果が出せたからなのか、わからないけれど。
35歳は、挑戦をしよう。35歳は、まだまだ若い。
そんな35歳の誕生日は、夫がシャンパンとケーキを買ってくれて、手作りのモツ鍋を作ってくれた。家族からプレゼントがたくさん届いて、ゆるくでも生きていてよかったなと思う。写真は母がくれた夫婦箸。
ケーキは食べきれず、翌朝の朝食になった。35歳の胃。
はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」