ずーっとインターネットが好きです。期間にすると18年、つまり人生の半分以上は。だけど、なぜか最近はうまく付き合えないでいるように思う。ふと思い立ったので、その理由を言語化してみます。
ちなみに、ここで指しているインターネットとは、Webサービスのこと。その中でも、チャットサービスや掲示板をはじめ、ソーシャルメディアやブログなど、複数のユーザーが存在しコンテンツ(=UGC)がうまれる、いわゆるコミュニティサービスのこと。わたしが初めてインターネットに触れたとき、コミュニティサービスなんて言葉には馴染みがなかったので、あえて「インターネット」と表記することにします。
振り返ってみると、インターネットに向き合う感情として、三つの段階があった。一つ目は「共感を得る喜び」、二つ目は「自分の人格や成果を承認される喜び」、そして三つ目に「反感を買う恐怖」。
始めの約10年間(1999-2009年)は、たくさんの人から共感を得る喜びが大きかった。とあるチャットで友だちができたこと、HTMLを書いて開設したホームページに設置した掲示板に知らない人から投稿されたこと、ブログにコメントがついたこと。それは学校がつまらないと思っていた中学時代から、だいたい社会人になるまでの時期だったから、思春期やモラトリアム期だったことも手伝って、ただ生きているだけで共感されたかっただけなのかもしれない。あるいは、いわゆるWeb2.0の時代で、インターネットに大きな期待を持っていたせいかもしれない。
そのあとの6, 7年間(2010-2017年)は、承認欲求の時代だった。自分の書いた記事にたくさんブックマークがつくこと、SNSでいいね!をいっぱいもらったりシェアされること。それらが喜びのひとつだったし、そういった概念が一般化したと思う。個人のできごととしては、社会人になり、家庭を持ち、大病を患ったことから、人生とその成果を認められたいと思っていたのかもしれない。
そして現在。なぜかいつの間にか、反感を買う恐怖が肥大しすぎているように思っている。文脈なしでツイートしたら炎上するんじゃないか、誰かが傷つくんじゃないか、会社や家族に迷惑がかかるんじゃないか、など。だから、適当なことを発信する元気も、思ったことをまとめるエネルギーも消えていってしまう(ので、この記事はかなりがんばって書いている)。インターネット全域でも、炎上する恐怖があると思う。リアルの生活とインターネットがあまりに強く結びつきすぎているからかもしれない。
どんどん広くなっていったインターネットから、何らかの方法で、逆に狭めていくことも必要なのかなと思い始めている。そんなことを考えていたら、「High Value Niche Use Case」という単語が目に入ったのであった。